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2014/8/27(水)の聖教

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2014/8/27(水)の聖教


1、御書とともに 名誉会長が指針を贈る Ⅱ 【26】 世界は哲学のリーダーを待望

御文 南無妙法蓮華経の南無とは梵語・妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経とは云うなり(御義口伝 708㌻)

通解 南無妙法蓮華経の南無とは梵語(古代インドの言葉)であり、妙法蓮華経は漢語である。梵語と漢語が合わさって、南無妙法蓮華経というのである。

【同志への指針】

 学生部の友と学び会った一節である。日蓮大聖人の仏法は「梵漢共時」であり、全世界の文化を尊重する。これが一閻浮提を照らす創価の道である──こう決意した俊英たちが皆、立派な指導者に育ってくれた。
 今、世界広布新時代に集った、宿縁深き男女学生部の英才たちよ! 次の50年を頼む。人間主義の力あるリーダーを世界が待っている。



2、わが友に贈る

 声の力は偉大だ。
 弾む声、温かな声で
 友の心に勇気と
 希望の光を送ろう!
 大生命力を燃やして!



3、名字の言  「学会活動を通して、世界の平和を心より願える自分になっていうた」

  核時代平和財団などが推進する「Nuclear Zero(核兵器廃絶)」キャンペーンの呼び掛けに応え、青年部が核廃絶の署名運動に取り組んでいる▼ある男子部員と一緒に勤行した時のこと。心ゆくまで唱題し、御祈念文に入った。男子部員がめくった経本の一ページ。「世界の平和と一切衆生の幸福のために」の一文に、太く赤い線が引かれていた▼傍線の理由を聞くと、「以前は自分のことを考えるだけで精いっぱいでした。でも、学会活動を通して、世界の平和を心から願える自分になっていた。その感謝を忘れないように」と、彼が言う。職場の同僚に核廃絶の意義を語ったところ、快く署名に応じてくれた、と笑顔を見せた▼「何を祈っているかが、その人の境涯」という池田名誉会長の言葉を思い起こす。個人的な悩みの解決を祈っていた自分が、いつしか友の幸福を思い、社会の安穏を願うようになる。一青年の変化に、尊い「人間革命」の実証を見る思いがした▼署名を呼び掛けた、核時代平和財団のデイビッド・クリーガー会長は、学会青年部こそ「世界平和の最大の希望」と期待を寄せる。自らがエゴの壁を破る生命変革に挑戦し、胸中に確かな平和のとりでを築く青年の連帯を、さらに広げたい。(険)



4、寸鉄

★  SGIはアジアの国や人を対話で結んだ―博士。世界平和へ民衆の絆強く
      ◇
★ 総秋田「女性の日」20周年安心と喜び多き安喜多の人材城!地域で友情拡大
      ◇
★ 「時間を浪費するな!今大事なことを見極めよ」恩師。朝の祈りから出発
      ◇
★ 成人の5%、500万人超が賭事依存症の疑い。人生狂わす病。社会で克服を
      ◇
★ 夏の疲れを残さずに。上手に睡眠。体調を整えて。賢い暮らしで健康博士に



5、信じ抜く教育本部開く未来 第5回 共に「不登校」を乗り越える

  青年教師は激怒した。
 子どもたちに対して、というよりも、この教室をどんよりと覆っている「他人の苦しみへの無関心」という大きな闇に対して──。
 小学校教諭の横山和伸さん(総兵庫男子青年教育者委員長)は、夏休みが明けた2学期から、この6年生のクラスを受け持った。
 前任の教師が体調を崩すほど“荒れている”と聞いていたが・・・想像以上だった。
 チャイムが鳴っても席に着かない。胸をえぐるような悪口が、挨拶代わりに飛び交う。
 心優しい子ほど肩身の狭い思いをしなければならない現実。光一君(仮名)という児童が1学期から学校に来られなくなっていた。
 9月のある授業中。クラスの(ボス格)の剛君が(仮名)が嘲るように言った。「きょうも来てへんのか。ええなあ!  あいつは学校休めて」。その瞬間、普段は温厚な横山さんの声が、怒気を含んだ語調に変わった。
  「その言い方を何や!  光一君がどんだけ苦しんでるか、分からへんのか!!」
 騒がしかった教室が一転、静まりかえる。
 しばしの沈黙──横山さんは深く息を吸い込み、ゆっくりと次の言葉を継いだ。
 「先生も昔、不登校やッたんや」

「みんなで笑って卒業しようや かけがえのない友達やんか!」

 6畳の自分の部屋が、生活空間の全てだった。
 カーテンを閉め、明かりもつけず、息を殺して布団にくるまっている日々。家の電話が鳴るたびに、体の震えが止まらない。高校3年の横山さんは家から一歩も出られなくなっていた。1994年のことである。
 原因は、いじめだった。始まりは地元の中学校に入ったころから。同級生から殴る蹴るの暴力を加えられるようになった。帰り道では荷物持ちをさせられた。
 仕返しを恐れて学校にも相談できず、ひたすら耐え抜いた3年間。私立高校に進学し、“これで解放される”と安堵したのも束の間──中学時代のいじめの主犯格が、横山さんを家から連れ出しては執拗にいじめ続けたのである。
 今になって「親には打ち明けられなかったのか」と問う人もいるが、答えに窮してしまう。当時、父・昇さんは消防士。母・明子さんは小学校教諭。人に尽くし、多忙を極めている両親に心配をかけまいとする“子どものいじらしさ”が、相談することを躊躇させたのかも知れない。男のプライドもあったと思う。
 「試験が近いから、友達の家で勉強してくる」などと嘘をついては、会いたくもない“友達”のもとへ向かうしかなかった。 
 それでも、隠しきれない事件が発生する。横山さんが別の友人に「もうアイツとは会いたくないんや」と漏らしたことが、いじめの主犯格の耳に入り、あごを複雑骨折する重傷を負わされてしまったのである。
 両親は、今まで気づけなかったことを泣きながらわが子に詫び、抱きしめた。「父さんと母さんは和伸の見方だから。何があっても絶対に守るから!」
 親に知ってもらえて安心した部分もある。が、それ以上に恐怖と不信感が横山さんの心を支配していた。殴られた痛みより、友人が告げ口したことが何十倍も痛かった。
 「何で自分だけ、こんな思いをせなあかんねん」「生まれてこんかったら良かった」──横山さんは、部屋に閉じこもった。

「大丈夫やから」

 たった一人、心を許せる同級生がいた。高校に入学してすぐできた親友・北野恵介さん。横山さんと同じ学会の高等部員だった。
 横山さんの両親も、恵介さんの両親である俊生さん・さゆみさん夫妻には「和伸が悩んでいるみたい」と、よく相談していたらしい。
 夫妻は、横山さんをわが子のように大事にしてくれた。夫妻が営む理髪店に髪を切りにいくのも、横山さんの楽しみだった。気さくな2人が織りなす軽妙な“夫婦漫才”に、おなかを抱えて笑う。いじめを忘れられるひとときだった。
 時に、自暴自棄になり、「どうせオレは」と将来を悲観しても、さゆみさんは「よっこん君(横山君)なら大丈夫やから」と、ありのままの自分を受け止めてくれた。それだけで不思議に勇気と自信が湧いてきた。
 だから、部屋に閉じこもった時も、心のどこかに、「恵介がおる。恵介の父ちゃん、母ちゃんがおる」という思いがあった。
  もちろん、家族の支えがあったことは言うまでもない。一方で家族という近しい関係ゆえ、互いに、つい感情的になってしまうこともある。そんな時、家族以外にも自分のことを理解してくれる人が、たった一人でもいるならば、励ましの一言があるならば──。
 かろうじて高校を卒業した横山さんは、香川県の大学に進学した。そこで出会った学生部の同志から、信心のすごさを、人生の師匠の偉大さを学んだ。
 横山さんは夢を持った。「師匠のように子どもを励ませる教育者になりたい」
  昔の仲間は笑った。「ろくに学校にも行かず、勉強もできんかったオマエが?」
 だが、さゆみさんは応援してくれた。「よっこん君なら絶対いい先生になれるで! 大丈夫やから!
 そのさゆみさんが突然、病に倒れた。がんだった。
  大学3年だった横山さんは、香川から兵庫の病院にお見舞いに駆けつけた。
  闘病中にも来る人来る人を励まし、弘教まで実らせたさゆみさん。命燃え尽きるとするその瞬間まで、笑顔だった。「よっこん君、ありがとな・・・頑張りや」
 横山さんは涙をこらえ、約束した。「オレ、絶対に教師になるから・・・!」
  大学卒業後、創価大学の通信教育部へ。寝食を忘れて学び抜き、小学校教諭の免許を取得したのである。

「排」から「拝」へ

 「せやから、うちのクラスのみんなにも、苦しんでいる友達に寄り添える人になってもらいたいんや」
 教壇で全てを語り終えたとき、横山さんは、自分でも気づかずに泣いていた。
 人の苦しみを笑うような人間が、幸せになれるわけがない。この子たちを、そんな大人には絶対させたくない──その必死の思いが通じたのだろうか。児童たちも皆、泣いていた。
 横山さんは、ほほ笑んだ。
 「みんなで笑って卒業しようや。かけがえのない、大切な友達やんか」
 その日から児童が変わり始めた。だが心配だつたのは、あの剛君のことだ。
 クラス一の荒くれ者。彼が教室の重たい空気をつくっていたことは否めない。
 「この子さえいなければ・・・」そんなあらぬ思いを抱いたことがないと言えば、ウソになる。ゆれる心を振り払うように、横山さんは御本尊に向かった。
  どんな時も祈り続けることができたのは、亡き祖母・藤本ことさんの思い出があったからかもしれない。
 題目もひと筋の人だった。「お題目に間違いはない。必ず祈りは叶うんやで」
 そう言いながら、朝な夕な、縁する全ての人の幸福を祈り続けていた祖母。
 横山さんは心に期した。
 「祖母のように祈り続けよう。さわみさんのように剛君を信じ続けよう」
 始めたことがある。放課後の剛君との語らい、そして交換日記だ。
 最初は口を開いてもくれない。日記には一行も書かれていない。それでも笑顔で関わり、励ましの言葉を綴り続けた。「剛君の気持ちに、心から寄り添える自分にしてください」と真剣に祈りながら──。
 すると、ぽつりぽつりと話を始めてくれた。日記にも文字を走らせてくれた。
 「先生、あのな・・・」
  どうやら家族との関係で悩み、一人、寂しい思いを抱えていたらしい。それだけに、この“特別なやり取り”が、剛君にとっては何よりうれしかったという。
 剛君は変わった。「クラスのためなら、何でもやるわ! オレも、横山先生に助けてもらったから」
 クラス一の荒くれ者が、一躍、クラスを盛り上げるリーダーになった。
 この子さえいなければと“排除”するのではなく、「この子がいるからこそ自分も成長できるんだ」という感謝の思いへと変わる。“礼拝”するように尊敬できる自分になる。
  「排」から「拝」へ──教師の一念が変われば、クラスも必ず変わっていく、

体育館の放送室

 不登校の子どもは、学校そのものに極度の不安を覚える。朝、無理して学校に行こうとすると発熱や腹痛に襲われることさえある。“行かない”のではない。“行けない”のだ。
 横山さんは「安心できる学級づくり」を心掛けた。不登校の児童に、ただ復学を求めてはいけない。誰も心から「行きたい」と思える学級をつくらなければ。ゆえに、児童たち自身の手で理想のクラスを築き上げることが重要だ。
  もともと光一君と仲の良かった数人の児童が、率先して動いてくれた。朝や放課後に自宅まで顔を出してくれたり、メールや手紙を通して「みんながいつでも待っているからね」とメッセージを伝えたり。
  クラスの雰囲気が変わってきたことを感じたのだろう。3学期になると、光一君は放課後だけ、学校に顔を出すようになった。
  そこで何をしたかといえば、卒業式の予行演習だ。横山さんが校長役を務め、仮の卒業証書を手渡す。
  「つらかったら無理せんでもええんやで。本番が終わった後、個別に証書を渡すことだってできるんや」
 そう気遣うと、光一君は首を横に振った。みんなと一緒に出たいから──と。
 授業中の教室の前まで来たことも一度や二度ではない。だかあと一歩で断念してしまう。皆が祈るような思いで光一君に励ましの手紙を綴り、再会を待った。
 迎えた卒業式。紅白幕が張り巡らされた体育館のフロアに、彼の姿は、ない。卒業生の視線は、舞台袖にある「放送室」に注がれている。窓はカーテンに覆われていて外からは見えない。だが誰もが知っていた。あの中に、制服姿の光一君が座っていることを──。
 「卒業証書、授与!」
  光一君の名前が読み上げられると、校長は縁台から離れ、放送室へ。他の誰にも見られない証書の授与。全員が心で拍手を送った。
 式典終了後。もう待ちきれないとばかりに、児童たちは放送室に駆け込んだ。
 「卒業おめでとう!」「やったね!」「会いたかったよ!」
 横山さんが、手持ちのカメラを取り出した。光一君と、光一君を囲む子どもたちが見せた、今までで一番の笑顔、笑顔、笑顔──。
 「みんな、ほんまにありがとう」。そうつぶやき、シャッターを切った。



6、わが町に誇り 宮城 名取市閖上(ゆりあげ)  師弟の絆こそ最高いの「心の財」

  宮城県名取市の閖上は、仙台市の南、名取川の河口にある漁港の町である。東日本大震災で壊滅的な被害を受け、3年5ヶ月後の今、更地に夏草が生い茂る。
  震災当時の閖上支部は組織の再編で、「閖上池田支部」となった。新しい土地で人生の再建へ歩む共も多い。だが、故郷の姿は変わっても、心には消えない宝がある。「信心」であり、人生の師匠と刻んだ思い出だ。
 1982年(昭和57年)8月22日、第1回宮城平和希望祭に出席した池田名誉会長は翌23日、仙台空港へ向かう途中、閖上に立ち寄った。功労者の南雲周蔵さん・はつゑさん夫妻(共に故人)宅を訪れるためである。
 夫妻は鮮魚店を営み、2階を個人会館として提供していた。
 正午前、名誉会長を乗せた車が店の前に止まった。「いつも、ありがとう。いいお店だ」
 出迎えた一家と握手し、記念撮影。店内を一回りし、2階の会場へ。そこには「閖上は全てに勝利してまいります」との垂れ幕があった。当時の、そして今も変わらぬ同志の誓いである。
 「商売はどうですか」と尋ねる名誉会長。繁盛していると聞くと、「すごいね」と喜んだ。
 「町の名士になってください」と、地域に根を張ることが、広宣流布の道であることを語った。
  この励ましを胸に、一家は広布と地域貢献の道を走ってきた。
 鮮魚店は長男の勝征さん(副支部長)・優子さん(支部副婦人部長)夫妻に引き継がれ、大きく発展。2007年には、調理師になった勝征さんの長男・慎一さん(男子地区リーダー)と、料理店をオープン。全国から客が訪れる盛況だった。
 だが、店も家も、大津波で、なくなった。
 閖上の町自体、震災の前月には7000人だった人口が、現在は2500人を下回る。しかし、日曜・祝日には朝市が開かれるなど、少しずつ、息を吹き返している。
 夫妻は現在、市内の借り上げ住宅に、慎一さん家族と共に暮らす。「たくさんのお客さまが、今も『食べたい』と言ってくださいます。いつか店を再建したい」と夫妻は夢を語る。その日を目指し、勝征さんは魚介の冷凍品の仕入れと納品の仕事を始めた。慎一さんは、日本料理店で働いている。
 2人の再出発が決まった3年前の震災直後の春、裕子さんは、名誉会長に手紙を出した。
 すると伝言が届いた。
 “今の道をまっしぐらに進みなさい。必ず変毒為薬する時が来るから。安堵する時が来たら、一緒に万歳を叫ぼうよ”
 裕子さんは言う。「何もなくなったけど、私たちには信心が、池田先生との絆があります。家族が一つになつて、前向きに生きていきます」
 生まれも育ちも閖上という橋浦治さん(副圏長)も、自宅を流失。今年2月、市内の借り上げ住宅から、一戸建て住宅に転居した。各地に点在する閖上の同志を訪ねては、励ましてきた。今も頻繁に連絡を取り合う。
  外では気丈に振る舞っていても、じっくり話を聞くと、避難生活の苦悩を語る友は多い。特に、家族を亡くした人の悲しみは、癒えるどころか、深まっていると感じる。
 「励ますというより、聞くことです。皆、話を聞いてもらいたいんです。思いを口にするだけでも心が落ち着くんです」
 一方で、新天地で頑張っている知らせを耳にすると、喜びもひとしお。妻の京子さん(婦人部副本部長)が言う。「会合で体験発表したり、同志の牽引役になっていたり、活躍の様子を聞くと、本当にうれしい」
 震災当時の閖上支部、現在の閖上池田支部で、支部長・支部婦人部長を務める加茂正幸さん・仁子さん夫妻。
  震災翌日から、同志の安否確認に歩き続けた。
 自身は、家族も自宅も無事だつたが、それが逆に、心苦しかった。「どうして助けてあげられなかったのか」と。
 その分まで、対話と励ましに徹してきた。
 私たちは「心の財」を積む方法を知っている。だから頑張ろう。希望を持とう──何度、涙で語り合ったかも知れない。
 その中で、学会の会合に参加したり、聖教新聞を読む友人も増えてきた。「広宣流布の総仕上げは、東北健児の手で」──名誉会長の指針を、今こそ実現するときと、夫妻は決意する。
 名誉会長の訪問32周年を記念する閖上池田支部の総会が今月24日、岩沼文化会館で開かれた。それぞれ、状況は違うが、誓いは一つだ。
 「先生との絆こそ、最高の宝」「つらい思いをした分、閖上は、最高に幸せになります!」



7、この時に誓う 【7】清水信越長 長野研修道場訪問35周年 


  世界広布の電源地の誉れ

  池田先生が、戸田先生と最後の夏を過ごされ、万代の広宣流布を開く構想を語り合われた地は、浅間山を望む長野でした。1957年(昭和32年)8月のことです。
  池田先生は後年、この時の思い出を教えてくださいました。
 「(戸田先生が)学会も将来、このように天地で夏期研修会を行いたいとの希望を、私に語られたのである。それは、牧口先生の夢でもあった」
  まさに、その地に完成した長野研修道場こそ、創価三代の“夢の結晶”です。
  この道場に、池田先生が初訪問されたのは、35年前の79年(昭和54年)8月20日。宗門と反逆者による陰謀の嵐が吹き荒れており、先生が会長職を辞して、わずか4ヶ月後のことでした。
 先生は語られました。
 「私の声が創価学会の声だよ。私の声が鳴り響いている限り、創価学会は大丈夫だ」
 師の変わらぬ毅然とした姿に触れ、暗く沈んでいた同志の心に、希望の火がともったのです。
 道場内では、3000人の同志と記念撮影を。一人一人を抱きかかえるように、温かく励ましてくださいました。
 以来、先生は、毎年のように長野研修道場を訪れ、戸田先生との誓いを果たすように、夏期研修会を開催。信越の同志と数多くの原点を築いてくださったのです。
 そして今月も、お元気な池田先生と奥様を長野研修道場にお迎えし、32回目となる夏期研修会を行うことができました。
 信越に対して、特別な思いを寄せてくださる先生。共に勤行をさせていただく中で、この誉れの宝土で戦える喜びを、あらためて実感しました。

影の人を大切に

  創価の正義を叫べ!
  青年が模範と光れ!
  先生は夏期研修会の一回一回を、真剣勝負で臨まれています。私自身、82年(昭和57年)から運営役員として携わり、その激闘の様子を眼に焼き付けてきました。
 朝には、朗々としていた先生の声が、夕方にはかすれていたこともありました。それだけ渾身の指導を重ねておられたのです。
 その激務の合間を縫って、役員にも激励を送ってくださいました。
 「私は“影の人”なんだ。いつも舞台裏で、一身をなげうって、戸田先生を支えた。広布の戦いを支えた。だから私は、影の人の苦労が、よく分かる。影の人を大事にしなくてはいけないよ」と。そして、その言葉を自らの行動で示してくださったのです。
 ある時は、「ここが心臓部だね」と、運営本部の部屋まで来て、声を掛けてくださいました。また、ある時は、一緒に散策をしながら、万般にわたる指導をしてくださったこともありました。
 一人でも多くの友と会う。そして目の前の一人に、今できる限りの励ましを送っていく。ここに広布前進の要諦があることを、先生から直接、教えていただいたことは、私の生涯の財産です。

模範の人材城を

 道場内に設置されている、会館守る会を顕彰する碑には、「この地こそ われらか地涌の蘇生の宝土 各国の友 来訪し 永劫の共戦譜つづりゆく 世界広布の輝ける電源地なり」との言葉が刻まれています。
 道場での師の薫陶を胸に、創価の友が世界へと羽ばたいていく。この“生命錬磨の大城”を擁する信越こそ、「世界広布新時代」を切り開いていく使命と責任があると決意しています。
 6年前の8月、先生は、私たち信越の同志に、万感の期待を寄せてくださいました。
 「『長野を見よ!』
  『新潟を見よ!』
 そう満天下に示しながら、堂々たる人材城を築いてもらいたい」と。
  池田先生に育てていただいた信越との誇りも高く、後継の青年と共に、拡大の金字塔を打ち立ててまいります。



8、小説『新・人間革命』第27巻第4章  求道63

  谷沢千秋の子息・徳敬は、四十代半ばの壮年であった。初夏の太陽が照りつける国道を見ながら、ワイシャツ姿で雑貨店の店番をしていた。すると、乗用車が止まった。一人の男性が息を弾ませて駆けてきた。顔見知りの北海道長の高野孝作であった。
 「谷沢さん! 山本先生が来られたよ」
 徳敬は、高野の言っていることの意味が、のみ込めなかった。
 「はあ?」と、聞き返した時、山本伸一の「おじゃましますよ」と言う声がした。
 「よ、ようこそ、おいでくださいました」
 口ごもりながら、彼は答えた。
 「徳敬さんですね。いつも、お世話になっています。お母さんの千秋さんは、いらっしゃいますか」
 「それが、この先の個人会館に行っております。あそこで、山本先生をお迎えするのだと言って、喜んで出ていきました」
 「そうですか。では、このあとで、お会いできますね。ところで、お仕事は順調ですか」
 「……頑張っております」
 徳敬は、母の千秋と共に、この雑貨店とドライブインを経営していたが、どこか、力を注ぎ切れぬものがあった。
 もともと彼は、雑貨店を継ぐつもりなど全くなかった。獣医を志し、十勝にある農業高校の畜産科に学んでいたが、胸膜炎にかかってしまった。進路の変更を余儀なくされ、教員の免許を取り、小学校の教壇に立った。だが、雑貨店を営む父が腎臓病で倒れた。不本意ながら、自分が店を継ぐしかなかった。
 獣医への夢が破れた悔しさと悲哀を、夜ごと酒で紛らせた。アルコール依存症になり、入退院を繰り返した。
 経済的な困窮はなくとも、精神が満たされなければ、魂は飢餓にさいなまれる。心を豊かに、強くするなかに、人生の幸福はある。
 そのころ彼は、帯広にいた兄の勧めで、藁にもすがる思いで入会した。
 父も、母も、続いて信心を始めた。一九六〇年(昭和三十五年)のことであった。



9、社説  下半期を清新な息吹で   座談会の勢いが広布の勢い

  今月開かれる、学会の座談会には、夏季友好期間に多くの思い出を刻んだメンバーが集い合う。それぞれの〝夏の挑戦〟を伝え、健闘をたたえ合いながら、心新たに出発したい。
 座談会は、いわば励ましの花園だ。広布の使命に生き抜く同志が語らう座談の場は、人生勝利への〝生命触発の場〟ともいえる。後継の友らは、信心の先輩たちが語る「妙法の蘇生のドラマ」に触れ、発心する。座談会は、新たな旅立ちの舞台ともなろう。
 広布拡大の推進力が心通う伝統の座談会にあることは、昔も今も、そして未来も決して変わらない。
 今年の上半期、中部方面では地区1人の新入会者が誕生。青年を中心に、弘教拡大の歓喜が幾重にも広がる。愛知の西一宮勇光圏・明地地区では本年、3人の女子部の友が弘教を実らせた。友人が心を開き、入会を決意したのは、座談会場だ。
 同地区では、女子部一人一人の成長と、その友人たちの幸福を真剣に祈り続けてきた。信心の喜びを語り、互いに励まし合う創価家族に触れ、座談会に参加した友人は心を動かされた。「こんなに温かい世界があるんだね」と。
 同じく愛知の中川王者区・中島支部では今月、男子部の新リーダーが数多く誕生。その陰には、青年の育成に心血を注ぐ壮年部の同志のドラマがあった。支部で青年部座談会を開催し、壮年・男子が力を合わせ、参加を呼び掛けてきたのだ。
 未来は今にあり。青年部のリーダーも、平和の陣列に加わった新入会の友も、青年学会を担い立つ使命深き勇者である。世界広布の伸展はひとえに、一人一人の成長にかかっている。人材の大河を広げるには地道な訪問激励を重ねることが大切だ。
 地道でなければ、偉大な事業を成し遂げることはできない。地道でなければ、難攻不落の城を築くことはできない――この戸田第2代会長の言葉に触れつつ、池田名誉会長は綴った。
 「地道といえば、座談会ほど地道な戦いはない。しかし、だからこそ崇高なのである。だからこそ不滅なのである。小さな、小さな、この庶民の集いから、善と正義と連帯をば、地域へ、社会へ、世界へと広げていくのだ。最前線の座談会の勢いが、そのまま、学会の広宣流布の勢いである」(「随筆 人間世紀の光」)
 今年の下半期も、青年層を中心に対話拡大の波を起こし、常に清新な息吹みなぎる創価の連帯を築いていきたい。



10、今日の発心  曾屋入道殿御返事 1025㌻ 

御書 心の師とはなるとも心を師とせざれ(曾谷入道殿御返事、1025㌻・編675㌻)

通解 わが心に対して師とはなっても、わが心を師としてはならない。. 

【師匠の心をわが心として勝利へ】

 自身の弱い心に負け、弱い心を師として従ってはならない、と教えられた御文です。

 私は学会員の親友に折伏された際、〝池田先生を師匠と決めて人生を歩もう〟と語る姿に心打たれ、入会しました。人生の哲学を求めていた時でした。入会して偉大な師匠や御書を知り、同志と学会活動に励むうち、人生観が大きく変わったことを実感。先輩から「何かあったら自分の心の考えではなく、師のお心に近づいていく人生を」と激励されました。
 1972年(昭和47年)3月19日、池田先生をお迎えしての千代田区の記念撮影会が学会本部で行われました。その場で「千代田七百五十人会」(現在は七百六十人会)が結成。先生の温かい振る舞い、千代田を愛してくださる一言一言に触れ、師匠との原点を作ることができました。
 支部長として活動するなか、自宅の老朽化が大きな悩みに。〝千代田で戦う使命があるのなら〟と、妻と真剣に祈り抜き、区内のマンションに転居。現在、地元町会の副会長として、妻と仲良く地域の発展・繁栄に奔走しています。
 本年は先生の千代田文化会館訪問から30周年の佳節。青年の心意気で、幸福と勝利の歴史を築いてまいります。
東京・千代田区主事 中島宗一



【社会の情勢】 

◆ 民法 法定利率に変動制 制定120年大改正 法制審
◆  「健康への深刻な脅威」 WHO、電子たばこ規制勧告
◆ 地域雇用創出に366億円 31兆円超 15年度予算概算要求
◆  津波高 日本海地震で初想定 北海道で最大23・4㍍
◆ 土石流、時速100㌔超か 広島土砂災害


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