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2014/8/26(火)の聖教

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2014/8/26(火)の聖教


1、シナノ企画新作DVD「HumanStory3」が完成

  シナノ企画の友好対話シリーズ№3の新作DVD「Human Story3――誓いを貫く勇気」(写真)が完成した。
 あらゆる人々に学びの道を開く創価大学の通信教育部。本作の主人公は、その教員として奮闘する壮年だ。
 非行に走った少年時代。中学卒業後、理容師として働きながら、夜間高校に学んでいた。ある時、母から創価大学の設立構想が発表されたことを聞く。
 題目をあげる母の後ろ姿に、彼は「しっかり信心すれば、その大学の教授になれるか」と聞いた。母を困らせたいだけの無理難題だった。しかし母は振り返って「あなたならなれます」と言い切った。
 以来、唱題や勉学への挑戦を開始。学生部夏季講習会で池田名誉会長に決意を伝えた。「必ず創価大学の教授になります」――。
 師との誓いの人生を生き抜く、一人の弟子の物語である。
 13分、1028円(税込み)。日本語字幕表示付き。大手コンビニ通販サイト「セブンネットショッピング」「ローソンネットショッピング ロッピー」で注文、購入できます。



2、音楽隊・鼓笛隊が各地で熱演

  音楽隊・鼓笛隊が23・24日、東京、長野、愛知をはじめ、各地のパレードやフェスティバルに出演し、演奏・演技を朗らかに披露した。また「サマーマーチングフェスティバル2014」(日本マーチングバンド協会主催)が千葉の幕張メッセで行われ、鼓笛隊の創価シャイニングスピリッツ、創価グランエスペランサが出場。創価シャイニングスピリッツが「ハイサウンド賞」に輝いた。音楽隊の創価ルネサンスバンガードがエキシビションとして登場し、イベントのフィナーレを飾った。



3、関西吹奏楽団が方面の吹奏楽コンクールで金賞 全国大会へ

  音楽隊の関西吹奏楽団(吉村陽一楽団長)が24日、滋賀県の守山市民ホールで開かれた第64回「関西吹奏楽コンクール」(主催=関西吹奏楽連盟ほか)に出場した(写真)。
 伊勢敏之氏の指揮で、「三つのジャポニスム」(真島俊夫作曲)などを演奏し、金賞を受賞。10月19日に新潟市で行われる全国大会への出場を勝ち取った。
 吉村楽団長は、「信心の戦いに一人一人が挑戦し抜いて、当日を迎えることができました。支えてくださる方々への感謝を胸に、『日本一』の楽団を目指します」と決意を語った。



4、わが友に贈る

 さあ 新たな前進へ
 目標を明確に!
 深き決意の祈り
 具体的な行動が
 広布発展の原動力だ。



5、各部代表者会議行う 名誉会長がメッセージ 題目の師子吼で進め!

  世界広布新時代第10回の各部代表者会議が25日、東京・新宿区の常勝会館で開催された。
  これには、池田名誉会長がメッセージを贈り、広島、京都、兵庫など、豪雨による甚大な被害を受けた地域の方々にお見舞いを述べるとともに、救援・復旧に先頭に立って懸命に尽力しているともに、深く感謝した。
  そして、「多事多難な時代にあって、日蓮大聖人の仰せの通り、『災い』をも『幸い』に転じゆく根源の力が妙法であり、その微動だにせぬ依怙依得宅となっていくことが、広布のリーダーである。辛労は尽きないけれども、一切が『立正安国』の不屈の大闘争だ。『能忍(能く忍ぶ)』という仏の心で、万事をよろしく頼みます」と語った。
 続いて、名誉会長は入信記念日の「8・24」を迎えるたびに、心新たに拝してきた「御義口伝」の「師とは師匠授くるところの妙法・子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟唱うる所の音声なり作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経を作すなり」(748㌻)の御聖訓を拝読。
  「師弟不二といっても、所詮、師匠と弟子が、同じ心で、広宣流布の戦いを起こすこと以外にない。勇敢に声を上げ、叫ぶ以外にない」と力を込めた。
 さらに、「いよいよ後半戦が始まり、わが同志は労苦を厭わず、行動を開始してくれている。その一人一人を心より尊敬し、最大に大事にしながら、元初の誓いのままに、歓喜踊躍して広布拡大の戦いを起こそう! 私も毎日、全同志に題目を送っている。共に題目の師子吼を、勇気凛々と轟かせ、満々たる折伏精神で戦い、進もうではないか」と力説した。
 最後に、全世界、また、未来まで模範と光る、はつらつとして清々しい振る舞いで、そして、明るく仲の良い団結で、新しい勝利の歴史を築いていっていただきたいと念願し、メッセージを結んだ。

 原田会長は、地道な訪問激励に徹する中で、広布拡大の突破口は開けると強調。リーダー率先の行動で創価の万代までの勝ち戦を決する前進を開始しようと語った。



6、名字の言   広島カープの赤は「戦う色」。苦難に屈しない広島の負けじ魂の色だ。

 広島カープの本拠地マツダスタジアムで22日、土砂災害後、初となる試合が行われた。完璧なピッチングを見せた前田健太投手はじめ、被災地のファンに勇気を届けたいとの選手の気迫が伝わってきた▼球団創設は原爆投下から4年後の1949年(昭和24年)の秋。戦前から広島商や広陵など高校野球の名門を擁した野球どころの市民にとって、プロ野球チームの誕生は、壊滅的な破壊から立ち上がる何よりの希望となった▼ただし、他球団のような強固な財政基盤を持たない市民球団ゆえの苦労は続き、球場前にカンパを募る「樽募金」が置かれた時代もある。戦力補強もままならなかったが、だからこそ、才能豊かな若い選手をスカウトして、名選手に鍛え上げる人材育成が球団の伝統となり、魅力にもなっている▼75年(同50年)、帽子とヘルメットを紺から赤に変え、「赤ヘル」旋風を巻き起こし、初のリーグ優勝を飾った。赤は「戦う色」。苦難に屈しない広島の負けじ魂の色だ▼池田名誉会長も昨年の中国新聞への寄稿で「広島の復興と歩みを共にしてきた『市民球団』カープには、どこにも負けない郷土愛と不屈の闘魂が真っ赤に燃えている」とエールを送った。励ましの赤い炎が、心から心へと広がることを祈りたい。(進)



7、寸鉄

★  会長の偉大さはどこまでも師を敬う精神に―饒宗頤氏。生涯青春の師弟道
      ◇
★ きょう北陸の日、30周年。誠実一路の広宣の友よ!万代に輝く人材の大城を
      ◇
★ 御義口伝「師子吼とは仏の説なり」。雄弁こそ勝利の力。青年よ勇み対話へ
      ◇
★ 指導主義が学会の伝統。幹部は幸福の軌道を指さし導け。先駆の実証で!
      ◇
★ 生活水準の低下感じる人が増加と。政治は実感伴う景気対策に知恵尽くせ



8、小説『新・人間革命』第27巻第4章  求道62

  勤行会を終えた山本伸一は、直ちに車で北海道研修道場を出発した。
 札幌に戻るため、再び百四十キロの道のりを、釧路空港へと走った。海岸沿いの国道に出ると、北方四島の一つである国後島が見えた。沖縄本島よりも大きな島で、標津から二十四キロほどの距離にある。
 伸一は、島影を見つめながら、日ソの平和条約の締結と領土問題の解決のため、一民間人として尽力していこうと決意しつつ、心で唱題した。
 海岸沿いを北上した車は、標津町で左折し、国道二七二号線に入った。道の左右には、広々とした牧草地帯が続いていた。車は、緩やかなアップダウンを繰り返しながら、緑の大地を貫く国道を快走していった。釧路に行くには、中標津町を抜け、再び、別海町に入ることになる。
 伸一たちは、往路に立ち寄った西春別の個人会館を再び訪問することにしていた。近隣の会員たちが集まると聞いたからだ。
 車が、西春別に隣接する上春別へ入った時、同乗していた田原薫が言った。
 「この国道沿いに、雑貨店とドライブインを営む、谷沢徳敬さんという壮年とお母さんがおります。雑貨店の二階を、会場に提供してくださっています。
 母親の千秋さんは、七十代後半ですが、大変にお元気で、ドライブインの方を、すべて切り盛りされているんです。草創期から、地道に地域広布の開拓に取り組まれてきた、強い求道心をおもちの方です。
 このお母さんは、『山本先生をわが家にお呼びしたい。それが私の夢です』と言われ、ずっと祈ってこられたそうです」
 伸一の胸に、感謝の思いがあふれた。
 「ありがたいことです。御礼のごあいさつに伺いましょう。申し訳ないもの……」
 誠実は、即行動となって表れる。
 どんなに疲れていようが、機会を逃さず、全力で友を励ます――彼の、そのひたぶるな生き方が、創価の絆をつくり上げてきたのだ。



9、紙上セミナー  生活に生きる仏教 病苦に立ち向かう人間革命の生き方
  (作業中)



10、希望の虹 第6回 作家 樋口一葉  (2014.9.1付 少年少女きぼう新聞)

みんな「いいところ」ある

 いよいよ2学期が始まったね。
 夏休みは、なごりおしいものだけど、秋もまた、楽しい、充実の季節です。スポーツにも、読書にも、勉強にも、一番いい季節です。
 だから何か一つ、今学期は、これをがんばってみようというものを決めて、スタートしたら、どうだろうか。その挑戦が、大きな成長のチャンスになることでしょう。
 自分かいいなと思えるものでいいんだよ。好きなことや、とくいなことは一人一人ちがうからね。
 みんな、自分だけの、自分にしかない「いいところ」が必ずある。それも、いっぱいあるんだ。
 江戸時代から明治時代に大きく変わった世の中で、「 自分の『いいところ』は、いろいろなお話を作って、文章を書くこと」と気づいた、一人のに女性がいました。
 樋口一葉という人です。五千円札に印刷されているから、みなさんも顔を見たことがあるかもしれません。
 一葉は「小説」を、いくつも書き、日本文学の名作を残しました。その作品は、もともとは、むかしの言葉づかいで書かれていますが、小学生向けに読みやすくした本もあります。

                  * * *

 樋口一葉は、今から140年ほど前の1872年(明治5年)、東京で生まれました。私たち創価学会の初代会長である牧口常三郎先生は1871年の生まれなので、一葉よりも一つ年上です。
 一葉とはペンネームで、本名は奈津。「なっちゃん」です。
 家庭のつごうで、住む家を何度も変えねばなりませんでした。
 4歳から9歳の少女時代、また本格的に小説に取り組んだ、18歳から亡くなる24歳までのほとんどの時期を、現在の東京・文京区でくらしました。
 文京区は、私にとって若き日から、多くの友と「前進」を合言葉に学会活動に走った、なつかしい天地です。ああ、このあたりで、樋口一葉が家族と暮らし、一生けんめいに小説を書いていたんだと、思いをめぐらせたこともあります。
 なっちゃん、すなわち一葉は、勉強が大好きでした。小学校を卒業したら進学して、ちっと勉強したいと願っていました。でも、そのころは「女性に学問はいらない」と考える人が多い時代でした。裁ほうや料理がに上手になって、早く結婚して家庭をつくることがよいといわれていたのです。
 一葉のお母さんも、そういう考えを持っていたので、一葉は進学させてもらえませんでした、深く悲しんでいる一葉を見て、お父さんは、学校のかわりに「和歌」を勉強する塾に通わせてくれました。
 「和歌」というのは、主に、ひらがなで数えて、「5文字・7文字・5文字・7文字・7文字」というルールに合わせ、自然や気持ちなどを表現する、目本の伝統的な詩です。言葉がリズムにのって、心から心に、すっと届きます。
 私も、人生の師匠である戸田城聖先生から、はげましの和歌をいただきました。私からも、先生に決意と感謝の和歌をおくりました。

                   * * *

 14歳で和歌の塾に通い始めた一葉はすぐ気がつきました。生徒がみんな、きれいな着物を着た、お金持ちや有名な家のおじょうさんだったのです。人力車に乗ってくる人もいました。
 一葉も、せいいっぱい、身なりをととのえましたが、まわりの人たちのような、はなやかな着物は、家にはありませんでした。
 一葉は落ちこんでしまいました。しかし、自分を塾に通わせてくれているお父さんや、苦労して育ててくれているお母さん、また、妹のことを思いました。
 着ているものでは、人間のねうちは決まらない!──一葉は、気持ちをきりかえて、一生けんめいに勉強を続けました。
 みんなが、一年のうちで一番きれいに着かざってくる新年の歌の会にも、一葉はお母さんが用意してくれた、古着をぬい直した着物で出席しました。そして、60人以上の出席者の中で、すばらしい和歌を作り、みごとに第1位の成績をとったのです。
 このことで、一葉は自信を持つことができました。しっそな身なりをしていても、少しもはずかしくありませんでした。自分には、すばらしい和歌を作ることができるというっいいところ」がある。そう思った一葉は、自分の長所をもっともっと伸ばして、物語を書く仕事をしたいと考えたのです。
 じつは、彼女の時代には、そういう仕事をしている女性は、まだ一人もいませんでした。一葉は、日本の女性で初めての「職業作家(小説を書くことを仕事にして生活する人)」なのです。

                   * * *

 新しい時代の先頭に立つ人は、きまって苦労の連続です。一葉にもその後、お兄さんとお父さんがつづけて亡くなるなど、たくさんの苦難がありました。書くだけでは家をささえられず、ほかにも仕事をしなければなりませんでした。
 それでも彼女は「負けじ魂」を燃やしました。たくさんの本を読みたかったので図書館に通い、学びに学んで、すばらしい物語を書きつづけました。
 有名な『たけくらべ』という作品は、下町で、みんなよりも少し年上の男の子や女の子が成長していく姿をえがいたものです。一葉は、大変な生活のなかで見たり聞いたりしたことを、物語に生かしていきました。苦しいことや悲しいことも、ぜんぶ宝物に変えていったのです。
 彼女は残念ながら、24歳の若さで、病気で亡くなりました。でも、そのみじかい人生のなかで、のちの時代まで人々に愛される、自分にしか書けない作品を生み出したのです。

                   * * *

 樋口一葉は、こんな言葉を残しています。
 「この世に生をうけた人間は、貧富貴賤(貧しかったり豊かだったり、身分や位か高かったり低かったり」の違いはあっても、すべて同じ人間であることには変わりはない」
 その通りです。
 仏法では、「桜梅桃李」という言葉があります。「桜、梅、桃、李、どれも花の形はちがうけれど、それぞれが、それぞれにしかない美しさを持っている」という意味です。
 そして、その美しさを最大に自分らしくかがやき光らせていく力が、正しい信心なのです。
 みんな、それぞれに「いいところ」があります。だから、自分と人をくらべてうらやましく思う必要などありません。
 がんばっても、がんばっても、なかなか、うまくいかない。自分の「いいところ」なんて分からない──そんな時は、題目を唱えてみてください。題目を唱えれば、元気が出てきます。自信がつきます。そして、よし、がんばってみようという勇気がわいてきます。
 「ありのまま」に悩み、祈り、また胸をはって挑戦していく──そうすることで、自分の心がみがかれる。心の中の宝物が光っていく。きみの、あなたの「いいところ」が、必ず見えてくるのです。
 みなさんの「いいところ」は、たくさんある。友だちにも「いいところ」がたくさんある。だから、仲よく、はげましあって、その「いいところ」を大いに伸ばしていってほしいんだ。
 「いいところ」とは、何かができることだけではありません。
 失敗をおそれない「勇気」があれば、すごいことです。
 お父さんやお母さん、まわりの人のことを「思いやる心」を持っていれば、それもまたすばらしいことです。
 樋口一葉は“心にはダイヤモンドがある”とも言っています。
 みんなも、自分の心のダイヤモンドを見つけよう!
 そして、そのダイヤモンドを大事にして、キラキラと、かがやかせていこうよ!

樋口一葉の言葉は、『完全現代語訳 樋口一葉日記』高橋和彦訳(アドレエー)から。参考文献は、真鍋和子著『樋口一葉』(講談社)。樋口一葉著『たけくらべ』(集英社)。



11、未来の翼 第6回 不屈の都 モスクワ    (2014.9.1付 未来ジャーナル)

君よ、貴女よ、負けじ魂の名優たれ!
春の来ない冬はない。苦しくとも粘り強く、自分を鍛え上げよ

 モスクワ大学のキャンパスがある「雀が丘」の展望台からは、壮大なスケールの首都の街並みが一望できます。
 ロシアの大文豪トルストイの名作『戦争と平和』にも、この「雀が丘」の近くからモスクワの街を眺めた様子が描かれています。
 「すべてが薄い澄んだ大気のなかで、目の痛むほどかがやき、胸は秋の香りの高い空気を吸い込んでたくましくなり……」と。
 そう、秋は、トルストイがいうように、「香りの高い空気」を大きく深呼吸しながら「たくましく」伸びていく季節だね。皆さんも、この秋、心も広々と、一回りも二回りも「たくましく」成長していってください。
 私には、世界都市モスクワで育った、多くの素晴らしい友人たちがいます。その一人、宇宙飛行士のセレブロフ博士は、病弱だった少年時代に、スポーツに挑戦して心身を鍛え、さらに勉学にも励んで、数学や物理のオリンピックに出場しました。
 博士は、「一人ひとりの素質は粘土のようなもの」で、「それを次第に形につくり上げていくのが『努力』です」と語られています。
 皆、それぞれの課題に挑み、自分自身をじっくりとつくり上げていく「努力の秋」そして「充実の秋」にしていこうよ!

 私がモスクワを初めて訪れたのは、ちょうど40年前――1974年の秋9月のことでした。今のロシアがまだ、ソビエト連邦(ソ連)だった時です。
 第2次世界大戦後、世界は、アメリカを中心とした資本主義の西側諸国と、ソ連を中心とした社会主義の東側諸国に、大きく二分され、激しく対立していました。いわゆる東西の「冷戦」(冷たい戦争)と呼ばれる時代です。両陣営の“壁”を象徴する「鉄のカーテン」という言葉もありました。
 西側陣営である日本にとって、ソ連はいわば「敵国」。ソ連に関する正確な情報はほとんどなく、多くの日本人が“冷たい”“怖い”というイメージを抱いていました。
 こうした状況は、日本にとっても、ソ連にとっても不幸なことだと、私は考えていました。“ソ連が怖い”のではなく、本当は、“知らないことが怖い”のだと。
 だからこそ私は、ソ連の人々の素顔を、自らの目で確かめ、多くの人に伝えたいと思ったのです。
 ソ連に行く前には、「宗教者が、宗教否定の国へ何をしに行くのか」などの批判の声が巻き起こりました。当時、ソ連と中国も対立を深めていたので、私が中国に続いてソ連を訪問することも、なかなか理解されませんでした。私は迷わず、「そこに人間がいるから、行くのです」と答えました。

 平和を願う、同じ人間に会いに行く──これが私の決心でした。
 その初訪ソの折、とある街中で結婚式を終えたばかりの若い二人に出会いました。後に「雀が丘」でも同じ光景を見掛けたことがありますが、ロシアでは新婚の二人で名所を回る習慣があるのです。
 すると突然、同行してくれていたモスクワ大学の方々が、「にがいぞ、にがいぞ!」と“声援”を送りました。初々しい夫婦に、わざと「にがい」と言って、ますます「あまく」仲よくさせる──ロシアの人々の愉快な慣習と温かな心に触れ、私も妻と一緒に、心から祝福の拍手を送りました。
 こうした人間味あふれる情景を、日本の人たちに伝えたい。それが私の偽らざる真情でした。
 「人間」こそ、一切の根本です。
 平和も、文化も、教育も、人間から始まり、人間に帰るのです。この「人間主義」のバトンを、後継の皆さんに受け継いでもらいたい。私は、そう強く願っています。

 ロシアは、ユーラシア大陸を横断する、世界で一番面積の大きい国です。それは日本の約45倍、海面を除いた地球の面積の8分の1に当たります。
 また、この大地は、人類の宝ともいうべき芸術・文化を生み出してきました。特に19世紀には、音楽ではチャイコフスキー、文学ではプーシキン、トルストイ、ドストエフスキーなど、世界的巨匠が次々と活躍しました。
 私も若き日から、こうした巨匠たちの傑作に親しんだ一人です。ロシアの芸術作品に表現された、人間への限りない愛情と信頼、生命の讃歌と深い精神性に、私は胸を熱くしたものです。
 これまで6度、ソ連・ロシアを訪れてきましたが、母なる大地に育まれた、おおらかで情に厚く、辛抱強いロシアの人々の素顔に、何度も心温まる思いがしました。
 ロシアの人々にとって、20世紀は激動の時代でした。ロシア革命、2度の世界大戦、そして独裁政権による粛清(方針に反する者を排除すること)──それでも明日への希望を失わず、民衆は断固として前進してきました。
 トルストイは、皆さんと同年代の時、日記にこう綴っています。
 「忍耐と勤勉。そうすればぼくの欲するすべてのものを得るであろうと確言」
 忍耐ほど、自分を鍛え上げてくれるものはありません。「粘り強さ」こそ勝利を開く秘訣なのです。
 たとえ今、どんなに苦しくとも、春の来ない冬がないように、それが永遠に続くことはありません。だから断じて負けてはいけない。戦い続ける人が、必ず勝利します。
 日蓮大聖人は「仏を能忍(難をよく忍ぶ人)と名づけるのである」 (御書935㌻、通解)と仰せになられました。
 世界が渇望する人間主義の未来を担いゆく皆さんです。一人も残らず、かけがえのない使命を持った君たち、貴女たちです。それだけに、試練も苦難も多い。
 ゆえに、この「能忍(よく忍ぶ)」という一点を、心に留めておいていただきたいのです。
 40年前、ロシアには、SGIのメンバーは一人もいませんでした。今、モスクワをはじめロシアの大地には、地涌の菩薩が躍り出て、社会に貢献しています。
 世界最高峰の学府・モスクワ大学と創価大学の間では毎年、交換留学生の往来を重ねています。

 ナターリヤ・サーツさんも、私と妻の大切な友人です。
 サーツさんは、世界初の「子どものためのオペラ劇場」である「国立モスクワ児童音楽劇場」を創設し、総裁を務めた方です。
 最初の出会いは1981年5月。「雀が丘」から、ほど近い児童音楽劇場で、「ナターシャおばさん」と慕われるサーツさんが、笑顔で迎えてくれました。
 大きな身振り手振りで、あふれ出る感情を表現される姿は“天真爛漫な少女”のようでした。私と妻の間に入って手を取り、自ら素敵な劇場を案内し、ご自慢の子どもたちを紹介してくださいました。
 サーツさんは、9歳でお父さまを亡くされました。さらに最愛のご主人も独裁政権によって粛清され、自身も「人民の敵の妻」として5年間、強制収容所に入れられました。美しい栗色の髪は、瞬く間に白くなってしまいました。
 最大の心の支えだったお母さまも、空爆で亡くなりました。お母さまは被弾した後も、サーツさんの舞台衣装を抱えて友人の家までたどり着き、絶命されたのです。
 収容所から出た後、その友人宅を訪れたサーツさん。夜、お母さまが息を引き取ったというソファに横になり、静かに目をつぶっていると、お母さまの夢を見たそうです。夢の中で、お母さまは語り掛けました。
 「歌うのよ、ナターシャ、何があっても歌うのよ。人生って、それは楽しいものなんですから」
 サーツさんは、絶望の淵から顔を上げました。いかなる困難にも、度重なる悲しみにも、負けることなく、前へ進みました。そして、子どものための芸術活動に献身する人生を歩み抜いたのです。
 サーツさんは語っています。
 「何でも簡単にできたことは一度だってなかった。常に困難があって、むしろそれをのり越えるのが好きだ」と。

 サーツさんが心掛けていた「困難を勝ち越える知恵」があります。
 それは──つらくて仕方がない時は、もう一人の自分が舞台に立っている姿を想像すること。そして、あたかも自分が演出家のようになって、舞台上の自分にウインクしながら、「ちょっぴりやっかいになってきちゃったね。さあ、ナターシャ、あなたがどうやってここを切りぬけるか、みものだわ」と語り掛けるという方法です。
 人生、そして青春は「劇」です。
 楽しい出来事もあれば、思わぬハプニングもある。苦闘の時期や胸躍る大逆転の瞬間、時にはほっと一息つく幕間もあるでしょう。いろいろあるから、おもしろい。
 だから、君がつらい時、貴女が苦しい時こそ、それは、「さあ、ここからだ!」「いよいよ勝負の時が来た!」という“青春勝利の舞台の見せ場”なのです。
 大聖人は、苦難にも負けずに前進する弟子の戦いを、「未来までの・ものがたり」(御書1086㌻)と讃えておられます。
 最高の妙法を持《たも》つ皆さんの奮闘は、必ずや未来の後輩が、世界の人類が、「あの人の負けじ魂の劇を見よ!」と仰ぎ見る物語となっていくのです。

 冷戦を終結させた元ソ連大統領のゴルバチョフ氏と初めてお会いしたのは、1990年7月27日のことです。
 この時、大統領の日本初訪問の実現が危ぶまれていました。モスクワのクレムリン宮殿で、私は開口一番、「きょうは、大統領と“けんか”をしに来ました! 火花を散らしながら、何でも率直に語り合いましょう。人類のため、日ソのために!」と切り出しました。
 するとゴルバチョフ氏は、一気に表情を崩し、はずむ語らいの中で、その次の年の“桜の咲くころ”に日本を訪問したいと希望を語られました。トップニュースとして、世界に発信されました。
 翌年の4月、氏はその約束を守り、ソ連の最高指導者として初の訪日が実現し、両国にとって歴史的な友好の春が花開きました。
 後年、その氏を、わが関西創価学園にライサ夫人と共にお迎えできたことも、金の思い出です。(97年11月)。氏と共に茨の道を歩んだ夫人が語られた言葉を、学園生たちも大切にしています。
 人生には、さまざまな痛手を受けることがあります。心の傷が癒えないこともあります。必ずしも夢のすべてを実現できるわけでもありません。しかし『達成できる何か』はあります! 何か『実現できる夢』は必ずあるのです!
 だから、最後に勝利する人とは、たとえ転んでも、立ち上がり、再び前に進む人です」
 わが人生という舞台で、自分が誇れる「何か」を残せば、たとえ途中がどうであろうと、それは勝利劇です。へこたれないで朗らかに、わが使命を信じ抜き、戦いのドラマを最後まで演じ切った人が真の勝利者です。君たち、貴女たちの「名演」が、どれだけ多くの世界の友を鼓舞し、勇気づけていくことでしょう!
 さあ、君たち、貴女たちにしか綴れない、「自分自身の物語」の幕が上がりました。
 名俳優の君、名女優の貴女の負けじ魂の舞を、父母も、創価家族も、私も、そして、未来の地球の若人たちも、大喝采を送りながら、見つめています。

トルストイの言葉は、トルストイ著『戦争と平和』藤沼貴訳(岩波文庫)、『トルストイ全集18 日記・書簡』中村融訳(河出書房新社刊)。セレブロフは、、アレクサンドル・セレブロフ/池田大作著『宇宙と地球と人間』(潮出版社刊)。サーツは、『私か見つけた「青い鳥」 ナターリヤ・サーツ自伝』斎藤えく子訳(潮出版社刊)から。



【社会の情勢】 

◆ 底上げ進み地域差縮小 沖縄の小学校改善目立つ 学力テスト
◆  スマホ「1日4時間以上」中3の1割、成績に影響
◆ 激甚災害指定を表明 首相、土砂災害の広島視察
◆  クロマグロ乱獲に「警報」 消費者にも周知 水産庁方針


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