2014/11/25(火)の聖教
1、難攻不落の三代城を永遠に 北海道広布60周年を大躍進
大空知総県が大会 原田会長が出席
北海道の同志に朗報! 「小樽問答」「札幌・夏の陣」から60周年の佳節を迎える明年、新たに3会館が着工されることが決まった。
新宝城は、小樽県の中心会館である新「小樽文化会館」、太平洋総県および苫小牧池田・苫小牧戸田県の中心会館の新「苫小牧平和会館」、道南戸田県をはじめ近県の友の広布の城となる「道南文化会館」である。
2、しなの合唱団が金賞 全日本合唱コンクール全国大会
音楽隊結成60周年を荘厳! しなの合唱団が23日、香川県高松市・アルファあなぶきホールで開かれた第67回「全日本合唱コンクール全国大会」(主催=全日本合唱連盟、朝日新聞社)の「大学職場一般部門 同声合唱の部」に出場。見事、2年連続3度目の「金賞」と、「香川県教育長賞」に輝いた。
女声と男声の競演が繰り広げられる「同声合唱の部」。強豪10団体が、個性の際立つ歌唱でしのぎを削った。
しなの合唱団の強みは、エネルギッシュな声の勢いと、大河のように太く包容力のある響きだ。
笹口圭吾氏の指揮、前田勝則氏のピアノで、課題曲「日まわりの歌」に続き、自由曲は「男声合唱とピアノのための『五つのモノローグ』」から2曲。谷川俊太郎氏の詩に、信長貴富氏が曲を付けた作品で、男の願望や葛藤を描く。
前半は、冒頭から総勢73人の“声の束”が圧倒する。後半は16分音符の速いリズムを刻みながら、終盤へと、音の激流を練り上げた。“苦闘を突き抜けた先に輝く、大いなる未来”――そんなメッセージを感じさせる好演だった。
今年は、しなの合唱団が飛躍を遂げた年。きっかけは、東日本大震災の被災地で行ってきた「希望の絆」コンサートである。3月から、福島や宮城の仮設住宅など20会場以上で演奏会を重ねてきた。
当初は“自分たちの歌が被災者の心に届くのか?”、そんな不安や葛藤に襲われた。
だが、“今こそ音楽隊の使命を果たす時”と腹を決めた。池田名誉会長が東北の同志に贈った指針を皆で読み、同苦の心を学んだ。移動のバスでも必死に練習した。自信はない。でも、目の前の一人のために精いっぱい歌おう――。
演奏を終え、被災者から送られた拍手と歓声、そして涙。この時、団員は気付いた。大事なことは“心で歌うことだ”。
そして何より皆を成長させたのは、本年春、名誉会長と音楽隊が共に作り上げた新学会歌「誓いの青年よ」。初演を担った団員の心は一つになった。「断じて師恩に応える!」
今回、つかんだ全国大会「金賞」の栄冠。分部光一団長は語った。
「池田先生をはじめ支えてくださった全ての皆さまに勝利の報告をすることができました。これ以上の喜びはありません!」
3、わが友に贈る
創価の柱たる
大関東の友よ!
不屈の敢闘精神と
模範のスクラムで
幸福の楽土を築け!
4、名字の言 視点を変える
地域の問題を協議する会議でのこと。議論が進まず、中心者が一つの提案をした▼往々にして、主張を言いっぱなしにしてしまうのが現状。そこで「会議を“話し合いの場”ではなく“聴き合いの場”にしてはどうでしょう」と。“聴く”ほうに軸足を置いて話し合うと、会議は実りあるものになった。視点を変える発想の妙を教えられた▼会社の営業で、悪戦苦闘する男子部員がいた。先輩同志の励ましで、今こそ信心、と祈るようになり、学会活動にも挑戦。ある日、「断られる回数を目標にしよう!」と決めた。すると厳しい応対にもひるまなくなり、訪問件数も増え、契約が取れるようになった▼誰しも壁にぶつかることがある。その時、どう乗り越える方法を見つけるか。「勇気をもって、ぶつかっていくことだ。動けば、おのずから、視点は変わる」と池田名誉会長はアドバイスを送る▼仏法は「煩悩即菩提」「難即悟達」を説く。マイナスをプラスに転じる、いわば視座と発想の転換である。そして「即の一字は南無妙法蓮華経なり」(御書732ページ)と仰せのように、苦境を開き、転換するために、妙法の実践がある。真剣な祈り、勇気の行動――その中から、限界を突破するための知恵は、無限に湧いてくる。(江)
5、寸鉄
★ 会長の人間主義が文明を永遠の発展に導く―博士 平和世紀の太陽は燦たり
★ 開拓の勇者・中国方面の友が正義の大行進!歴史を開く凱旋を一人一人が
★ 「軍には大将軍を魂とす」幹部の勢いで決まる。強気で拡大!勇気の万波を
★ 一番大事な事を見極め最優先せよ―恩師。協議は価値的に。ぱっと現場へ
★ 家計支え経済全体の活性化進める公明の視点が不可欠―識者。断固応えよ
6、わが町わが誇り 広島 呉平和圏・呉東平和圏 執念の祈り電光石火の行動
“呉が呼んでいる。呉の同志が待っている。よし、行こう!”
池田名誉会長の広島・呉の初訪問は急きょ決まった。1975年(昭和50年)11月11日の午後。広島市の広島文化会館で、呉の同志が来訪を祈り待っていることを聞き、決断した。
「『今』という時は、二度と来ることはない。ゆえに、機会を逃さぬ、電光石火の行動が大事なのだ」──小説『新・人間革命』第22巻・命宝の章に、当時の心情が描かれている。
訪問は、一婦人の執念の祈りから生まれた。
呉総合本部(当時)の中心者だった竹下牽子さん(総県婦人部主事)。
夫の一馬さん(総県主事)と共に、後に圏長・圏婦人部長も務める。呉広布の功労者の一人だ。
午後4時前、呉会館の隣にある会場に、名誉会長を乗せた車が止まった。同会場と近くの公園、呉会館にも、多くの同志が集まっていた。
公園に集った同志の歓声と涙顔。手を振って応えた名誉会長は、会場に入り、そこをぎっしり埋めた同志に語った。
「きょうは、呉の皆さんの題目の力に、ひきつけられて来ました」
「皆で力を合わせ、世界一明るく、仲のよい、功徳に満ちた呉創価学会をつくっていこうではありませんか!」
会場を後にした名誉会長。車が、ドアを開けてまっていた。
それを見た牽子さんはあわてて「先生! 呉会館はこちらです」と、名誉会長の腕を引っ張った。帰ってしまうのではと心配し、呉会館の同志にも会っていただきたい、と必死だった。
「分かっているよ」
名誉会長はその一途な心を喜び、「夫婦でよく頑張ってくれたね」と、功労をたたえた。
名誉会長は、訪れた呉会館でも2度、勤行会を開く。この訪問が、後の第1次宗門事件を乗り越える原動力となった。
名誉会長が第3代会長を辞任した翌年の80年(昭和55年)から、呉は5年連続で、中国方面トップの弘教を達成。反転攻勢の牽引力となる。
名誉会長が呉に2度目の訪問を果たすのは、その5年目、84年(昭和59年)10月26日のことである。呉平和会館に着いた名誉会長は、青年部などを激励し、記念植樹。続いて、各部のリーダーらと記念撮影を行った。
その中にいた原田紀夫さん(副総県長)は、17年前の師匠との出会いを思い出していた。
67年(昭和42年)7月、呉市内で、豪雨による土砂災害がガ発生。生き埋めの一家の救出に向かった原田さんは、再び襲った土砂に飲み込まれた。
九死に一生を得たが、共に救助活動をした同志らの死に直面し、大きな悲しみを背負った。
退院した原田さんは翌8月、男子部の夏季講習会に参加する。名誉会長は、被災直後から遺族や被災者に矢継ぎ早の激励を送ったが、重ねて、原田さんを抱きかかえるように迎えてくれた。
「大変だったね。よく頑張った!」と名誉会長。自分の前に置かれたジュースを渡した。
原田さんが一口だけ飲もうとすると、「全部、飲んでいいんだよ」。
涙にむせぶ原田さんに言った。「これからどんな苦境にあっても、必ず幸せになれる。だから、頑張るんだよ!」
その師の言葉が、原田さんの人生を支えた。
2度のがんを克服。経営する運送会社も、倒産の危機を乗り越え、社員40人を擁するまでに。
3人の娘も、全員が広布の庭で存分に活動。原田さんは本年7月に新居を構え、1階を広布の会場に提供している。
桧和田ヨシ子さん(支部副婦人部長)も、84年の訪問で、忘れ得ぬ思い出を築いた一人。10月26日午後、名誉会長が、桧和田さんの営む喫茶店に立ち寄ったのである。
名誉会長は「とてもおいしかったです。この味は忘れないよ。一生、覚えておくよ」と。
そして「誰からも好かれる人間、お店にしていってください」。
この日を原点に、桧和田さんは活動に励み、店も連日、多くの客でにぎわうようになった。
一緒に激励を受けた長女の新地節子さんは今、総県副婦人部長。店は2年前に閉めたが、一家で歩んだ学会一筋の道は、同志の希望と光る。
“呉よ、心臓部たれ”──名誉会長は、先駆の行動で、広布の全体を動かすことを、いつも呉に期待してきた。
84年の訪問から30年。呉が動けば、広島が、中国が、全国が動く! その誇りと決意が今、呉にはみなぎっている。
7、この時に誓う 谷川副会長 【11】 「11・18」から新たな挑戦
本年は初代会長・牧口先生の殉教から70年。
192カ国・地域に日蓮仏法の光りが広がり、広宣流布大誓堂に全国、全世界の同志が集い来ています。その姿を見る時、初代・牧口先生、第2代・戸田先生の誓願を継ぎ、果たしてこられた池田先生への報恩感謝の思いが湧いてまいります。
同時に、一人の池田門下として思います。
“あの偉大な師匠のようになれるはずがない”と思ってしまうならば、それは、謙虚に見えるが、実は、卑屈であり、仏教の師弟不二の精神への侮りとさえいえる。
未熟で弱い自分であるけれども、“あの偉大な師匠のように”と誓い、自身をなげうって戦う中に弟子の道がある、と。
背後の人にまで心を砕く
先生の一日は、朝、起きた瞬間から、同志への激励です。
たとえば、聖教新聞に目を通せば、写真に写った方に激励を送られたり、掲載された地域に伝言を贈られたりします。
車に乗れば。運転手に声を掛け、本部に着けば着任中の役員に励ましを送られます。しかも激励は、会った人に対するだけではありません。ご家族にまで気を配られる。
一人の背後にいる人まで“立体的”に見て、心を砕く。何度も、そのお姿を拝見してきました。
私自身、創価中学・高校の在学中から、卒業・大学進学、就職と、人生の節目に、これほどまでにという激励をいただいてきた一人です。
1984年(昭和59年)、学生部長だった私は、先生の関西指導の運営役員に就きました。
関西では、草創からの功労者の近況を調べて一覧にしていました。先生は、関西文化会館に到着されるや否や、その名簿をご覧になり、大変な勢いで激励の手を打たれていきました。
その際、名簿に載っていない方のお名前が出てくるのです。地元の幹部も分からない。しかし、調べてみると確かにいらっしゃる。先生は大阪への車中から、既に関西の同志のことを考えておられたのだと思いました。
同じ年、和歌山から大阪に戻られる特急電車に同乗した時のことです。
途中の停車駅で、利用客の邪魔にならないよう、ホームの端で待っている少年少女たちがいました。動き出した車両から、それを見つけた先生は全力で手を振られ、その後も、子どもたちへの激励の指示を出し続けられました。
それは大阪に着くまで続いたと記憶します。「先生は常に、どうやったら同志を励ませるのかを考えておられる」と知りました。
先頭を切る
私が男子部長に就任した直後、青年部幹部会で、青年部の目標を発表する機会がありました。すると先生は間髪を入れず言われました。「本当にできるのか?」
「私は師匠である戸田先生の前でお誓いしたことの、ただの一つもできなかったことはない、本当にできるのか?」
「やります!」とお答えしましたが、原稿を読み終えると、「それで?」と言われます。
ところが、もう読む原稿がないる困り果てましたが、腹を決め「すべての戦いに私が先頭を切ってまいります!」と申し上げると、「そうだ!」と言ってくださいました。
青年部時代の先生は、戸田先生が逝去される直前、“7年間で300万世帯の陣列”という目標を示された時、「はい。成就いたします。ますます勇気がわきます」と即答されているのです。
幹部会は、全国の会館に中継されていました。
師匠に誓ったことは必ず成し遂げるのが学会精神であると、私自身、そしてすべての青年部員に教えてくださったのです。
「11・18」から、世界広布新時代を開く、新たなる戦いの火ぶたは切られました。池田先生に薫陶を受けてきた私たち門下の熱と力でね断じて勝利してまいります!
8、『新・人間革命』 第28巻 第1章「広宣譜」 (7)
牧口初代会長、戸田第二代会長は一人立つことによって、現代における広宣流布の新たな流れを開いた。その事実のうえから、山本伸一は、「諸法実相抄」講義で、慈折広布を実現させゆく師子の精神を訴えたのである。
ところが宗門は、その文言をもって、あえて、学会では日蓮大聖人と初代、二代の会長を同一視しているとして、極めて歪んだ見方の質問をよこしたのである。
また、伸一が、戸田は獄中にあって、唱題のなかで、「法華経を色読され、地涌の菩薩の棟梁としての開悟をされた」と語ったことについても、こう尋ねてきた。
「地涌の菩薩の棟梁とはいうまでもなく上行菩薩であります。すると戸田前会長は上行菩薩として自身を開悟しその行を行じたのですか。そうなると大聖人は必要ないことになりますね」
伸一が、戸田を、「地涌の菩薩の棟梁」と述べたのは、「在家における折伏弘教のうえの指導者」という意味からであった。また、戸田自身が、自らを「地涌の菩薩の棟梁」と言っている。戸田は、その自覚に立って、戦後、広宣流布にただ一人立ち、会員七十五万世帯の弘教の指揮を執ったのである。
この戸田の戦いについて、法主の堀米日淳は、「その方々を会長先生が末法に先達になって呼び出されたのが創価学会であろうと思います。即ち妙法蓮華経の五字七字を七十五万として地上へ呼び出したのが会長先生だと思います」(注)と賞讃している。ここに述べられた「その方々」とは、六万恒河沙の大士即ち地涌の菩薩のことである。伸一は、それも踏まえ、戸田が戦後日本の混乱した時代にあって、会員七十五万世帯達成という未曾有の正法流布の指揮を執った事実のうえから、「地涌の菩薩の棟梁」と述べたのである。
現代にあって、さまざまな法難に遭い、不惜身命の覚悟で広布を進めている人こそが「地涌の菩薩」であり、その指導者は「棟梁」ではないのか! そうでなければ、どこに、「地涌の菩薩」の出現があるのか!
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■引用文献
注 「創価学会第十八回総会御講演」(『日淳上人全集 上巻』所収)日蓮正宗仏書刊行会=現代表記に改めた。
9、座談会 世界広布新時代の旭日 【96】開幕の年」の本年 総仕上げの時
要諦は「団結」と「スピード」
「大衆とともに」貫け公明党結党50年
吉井 全国で学会伝統の「教学部任用試験」が実施され、大成功で終えることができました。
杉本 多忙な中、挑戦された受験者の皆さま、また一人一人を支えてくださった皆さま、役員・担当者をはじめ、全ての方々に心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
正木 今回の任用試験をきっかけに、新たに立ち上がった同志が、「世界広布新時代の主役」として輝けるよう、さらに全力で励ましていきたい。
原田 いよいよ、1年の総仕上げの時を迎えました。「世界広布新時代 開幕の年」を断固として勝ち飾り、明「躍進の年」へ、勇猛果敢に対話拡大に打って出たい。そして、創価の万代の勝利を開いていきましょう!
ゴールまで全速力
竹岡 本年も残り少しとなりました。かつて池田先生は、わずか10日間で日本一の折伏を成し遂げ、歴史を動かした「札幌・夏の陣」を通し、勝利の要諦について教えてくださったことがあります。それは、①団結②スタートダッシュ③中心者の鋭き一念です。
橋元 第1の要諦は、「団結」。「戦いが短ければ、短いほど、気を引き締め、結束しゆくことだ」と。
第2の要諦は、「スタートダッシュ」。「先んずれば人を制す」「先に手を打った方が、必ず勝つ」と。
そして第3は、「中心者の鋭き一念」。「同志の必死の奮闘の一切を勝利に直結させるとの一念」「絶対に勝つという一念」です。
原田 「短期決戦は、ゴールまで全速力で走り抜く」ことが鉄則です。「始より終りまで弥信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん」(御書1440ページ)との御聖訓を胸に、友のため、法のため、社会のため、平和のために走り抜いていきましょう。
正木 一人一人が信心の戦いを通して、人間革命・宿命転換を果たせるよう、共に祈り、励まし合っていきたい。
杉本 足元の地域での地道な草の根の行動から新時代は開かれます。今いる場所から友好を拡大し、民衆の幸福と平和の実現へ、自他共の幸福の連帯を大きく広げていきましょう。
小さな声を政策に
橋元 さて、国会では、今月21日に衆議院が解散し、総選挙が12月2日公示・14日投票の日程で実施されることになりました。
正木 今回の総選挙は、与党の進める経済対策・財政再建の路線をさらに推し進めるのか、それとも、具体的な経済政策を提示できない野党に委ねるのか。日本の行く末を左右する「政権選択」の選挙です。
竹岡 ①法律に明記されていた来年10月の消費税引き上げを見送る。②消費税を10%に再増税する時期を2017年4月にする。③再増税と同時に軽減税率を導入する――今回の選挙では、この3点の是非が問われています。
橋元 景気をどう改善して国民生活を守るか。また、社会保障などの取り組みも、待ったなしです。
原田 学会は中央社会協議会で、公明党から寄せられた衆院選での比例区への支持依頼について検討・協議し、比例代表での「公明党」の支持を決定。また、小選挙区公認候補9人への支持依頼についても、北海道・東京・神奈川・大阪・兵庫の社会協議会で支持を決定しています。
橋元 今月17日、公明党は結党50年の大きな節目を迎えました。「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」――公明党はこの立党精神をこれからも貫き通してもらいたい。
正木 まずは議員、家族が先頭に立って戦い、国民に尽くし抜く政治を実行してもらいたい。それでこそ、支持者は懸命に応援してくださいます。
原田 公明党には、立党精神に基づき、地域に深く根差した、比類なき議員の「ネットワーク」があります。これまでも、この公明党の「チーム力」で国政、地方政治において数多くの実績を積み重ねてきました。
吉井 早稲田大学政治経済学術院の北川正恭教授も次のように語っています。
「私が公明党を高く評価し、期待している点の一つが、約3000人の国・地方議員が模範的な団結を見せ、組織政党として一貫性を保っていることです」(公明新聞11月17日付)
竹岡 公明党が目指している「軽減税率の導入」は、まさに「ネットワーク」を通じて、国民の「小さな声」を集め、生活者の視点に立って反映した政策です。
原田 公明党は、自民党だけでは受け止めきれない民意をくみ取り、一人の声を政治に届けてほしい。
杉本 聖学院大学学長の姜尚中氏は、次のように期待を寄せています。
「50年間ぶれずに一貫して『中道』を掲げた政党は、公明党しかない。中道というのは、AとBを足して2で割るというものではなく、いわば“王道を行く”ということだ」(同4日付)
吉井 さらに姜氏は、「唯一、『この政党だったら託せる』と言える政党。それが今の公明党の立ち位置ではないか」(同)とも語っています。
正木 政治を安定させる連立与党の要として、「景気経済の再生」や「東日本大震災からの復興の加速化」など、日本が直面する諸課題の打開に向け、公明党への期待は大きい。
原田 不変の立党精神をどこまでも貫き、公明党は「中道主義」「人間主義」の旗を高らかに掲げ、日本の未来を切り開いてほしい。
10、社説 “第三の居場所”で光る 男性も勇んで“地域デビュー”を
厚生労働省の調査によると、昨年の日本人の平均寿命は男性80・21歳、女性86・61歳で、男性が初めて80歳を超え、女性も4年ぶりに過去最高を更新したことが分かった。
「高齢人生」を「幸齢人生」へ――。定年後の人生を、いかに充実したものとしていくか。ダイヤ高齢社会研究財団の主任研究員・澤岡詩野氏は、本紙のインタビューで「家庭でも職場でもない“第三の居場所づくり”の必要性」を訴える。
“第三の居場所”とは、「人とのやりとりがあって、楽しく居心地のよさを感じる」場所のこと。
澤岡氏の調査によると、75歳以上の企業退職者の多くが、70代半ばから80歳までに社会活動を部分的に中止する一方、「身体的・肉体的に負担の少ない」「徒歩・自転車で通える近場」の活動を継続している特徴が見られたそうだ。
地域に根ざした人との触れ合い、つながりを築く新たな一歩が、定年後の人生をさらに豊かなものにするといえよう。
また、内閣府による2013年(平成25年)度「高齢者の地域社会への参加に関する意識調査」では、「健康・スポーツ」「趣味」「地域行事」などの活動に参加したい人の割合は、60代で8割、70代で7割、80代で5割強との結果だった。
さらに、それらの活動に参加した人を対象とする調査では、体操や歩こう会、ゲートボールなどの「健康・スポーツ」や、俳句や詩吟といった「趣味」の分野において、9割以上が満足と回答している。理由として「新しい友人を得ることができた」「生活に充実感ができた」などが挙げられた。
本年8月に本紙に掲載された神奈川県の壮年は、68歳までコンピューター関連会社に勤め、退職後、自治会の区長に就任。次々と寄せられる相談に耳を傾け、課題の解決に奔走する。「相談されるって、ありがたいことですよ。“皆さんに喜んでもらえる”ということは、“地域に恩返しできるチャンスをいただいている”こと」と語る。
「人のため、地域のため」との思いが生きがいになり、“第三の居場所”をさらに輝かせ、充実させる。
日蓮大聖人は「年は・わかうなり福はかさなり候べし」(御書1135ページ)と仰せだ。広宣流布という大目的を掲げ、開かれた心で、わが地域へ一歩踏み出すところに、生きがいに満ちた豊かな「幸齢人生」の舞台は広がる。
11、きょうの発心 御義口伝 781㌻ 【偉大な師と広宣流布の大道進む】
御書 法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり此を去って彼に行くには非ざるなり、道場とは十界の衆生の住処を云うなり(御義口伝、781ページ・編1627ページ)
通解 (法華経の行者が)法華経を受持する所を「当詣道場」というのである。この娑婆世界を去って、極楽浄土等のほかの国土へ行くことではない。「道場」とは十界の衆生の住所(娑婆世界のこと)をいうのである。.
私たちが御本尊を受持し、信心・唱題に励む場所が寂光土となる、との一節です。
母と妹が入会したころ、わが家は家庭不和を抱えていました。誰も信じることができなかった私は、信心に反発し、入会を拒み続けました。
やがて社会人となり、仕事の悩みに直面。その時に同僚から折伏を受けました。私は、三重研修道場がオープンした1976年(昭和51年)に入会。以来、素晴らしい同志に恵まれ、学会活動の大切さを徹底して教わりました。
78年、第1回三重文化合唱祭に参加。その席上、池田先生の慈愛あふれる振る舞いに接し、師と広宣流布の大道をと誓いました。
度重なる転職や、子どもの不登校、経済苦、4年前には自身の右目の失明などがありましたが、この御文を胸に乗り越えてきました。
三重広布55周年、「三重の日」の淵源から40周年の本年、「幸福輝く世界一の心の大長者たれ」との指針を胸に、人材城を築いてまいります。
三重王者県壮年部長 田中 康彦
【社会の情勢】
◆ エボラ対応病院整備へ 空白県、早期実施の方針
◆ 自動車部品・ヘッドライト盗難急増 カーナビは被害減少
◆ 公明は中小企業応援 「責任もち政策を実現」山口代表強調